水がつくった世界の歴史

いつの世も、どこの国でも、水はその土地の民の死活を握っていた。
それゆえに、水を巡って、さまざまな駆け引き、戦争、人間ドラマが繰り広げられてきた。
そこでここでは、歴史を作ってきた人々と水との、知られざるエピソードを紹介します。
時代を超えて、水と人間たちとの根深いつながりが見えてくることでしょう。

水源を絶たれて滅びたアステカ族

世は大航海時代。
スペインの冒険家コルテスは、メキシコ盆地に栄えていたインディオの国、アステカ王国への侵略をはかっていた。
1521年、彼は首都テノチティトランに最終攻撃をかける。
その作戦のひとつが「水源断ち」だった。

テノチティトランは、標高2237メートルの高原にあるテスココ湖の小島に建設された「湖上都市」だった。
アステカ族は、対岸のチャプルテペクと首都の間に、5キロメートルにわたる石造り水道を建設し、飲料水を引いていた。
コルテスは、この水源を破壊したのである。

首都はたちまち干上がった。
喉を潤すものを失った市民は、湖の水を飲んだ。
しかし、この水は塩水だった。
彼らは喉をかきむしって苦しみ、渇きに悶えながら死んでいった。

こうしてコルテスはアステカを滅ぼし、そこに「メキシコ」という新たな国を作った。
テノチティトランとは、現在のメキシコシティである。
ところが現在、メキシコシティはほかならぬ「水問題」に苦しんでいる。

テスココ湖の水を抜いてつくったメキシコシティは、井戸を掘ると地盤沈下が起こる恐れがある。
昔と同じく、水源を遠くから引かなくてはならない。
しかし人口の多い街を支えるための水の確保は難しく、飲料水は100キロメートル以上離れたところから引いているという。

また、もともと湖の底であったメキシコシティは、くぼ地であるために水はけが悪い。
下水の施設も整わず、少し雨が降るとすぐに浸水、冠水が起こり、都市機能はマヒを起こしてしまう。
500年前に水を絶たれて苦しみながら死んでいったアステカ族のうらみが、今になってメキシコの街を苦しめているのかもしれない。

古代エジプトから存在した水時計

古代の文明国では、水を使って時間をはかる「水時計」が使われていた。
最古のモノは紀元前1400年ごろの古代エジプトにあった。
そのほか古代バビロニア、中国、そして古代ローマ帝国でも使われていた。
そのメカニズムは、水を一定量ずつ、容器から容器へと流出させ、その量によって時間をはかる、というものだった。

ローマにおける水時計は、主に法廷での弁論時間を計る「ストップウォッチ」のような役割をしていたようである。
弁論の時間を無駄に過ごすという意味で「水を失う」という表現をしている古文書も見つかっている。

また、カエサルやアウグストゥス、その後の皇帝たちも、遠征のとき、携帯用の水時計を持っていたことが知られている。
貴人たちの持ち物であるがゆえに、水時計は宝飾も美しく、西洋、アラビア、中国などでもすばらしい細工を施されたものが残されている。
日本でも、671年に天智天皇が水時計を作らせて、時報を始めたという記録が、「日本書記」に残っている。

ちなみに古代日本では、時計のことを「漏刻」と呼んでいた。

フォークダンスの起源も水

「マイム・マイム」というフォークダンスをご存知の人も多いだろう。
キャンプファイヤーを囲んで手をつなぎ、クライマックスになると中央に向かって全員が進み出る。
高揚感のある、楽しいダンスである。
しかしこのダンス、実はキャンプファイヤーではなく、水を囲んで行うのがふさわしいのだ。

なぜなら、「マイム・マイム」とは、「水・水」という意味のヘブライ語。
この曲は、砂漠地帯で水を掘り当てた人々が喜んでいる様子を表したイスラエル民謡なのである。
思えば、あの振り付けは水の波紋のようにも見える。

紀元前の遥か昔、イスラエル民族は神との約束の地に自分たちの国を作った。
それが滅びた後、数千年を経た第二次大戦後、ユダヤ人=イスラエル民族の子孫たちは同じ位置に新たな「イスラエル」を建国した。
そして、乾燥した砂漠の地に希望の「水」を引いて開拓にはげむ喜びを表すこの歌をつくったと言われている。

とはいえ、イスラエルの建国をきっかけに、今も中東の悲劇が尽きないこと、そして、「水の領有権」をめぐる争いが続いていることは、前項で述べたとおり。
喜びの裏には、さまざまな悲劇も尽きないのである。

武田信玄と水の深い関係

日本で水にまつわるエピソードがとりわけ多いのは武田信玄である。
彼が治めた甲斐国の中でも今の甲府一帯は、盆地と言う地の利の悪さもあり、あちこちの川が氾濫して農民が困っていた。
そこで、着任したてのわずか21歳の領主・信玄が、大規模な治水工事に着手したのだった。
18年もの年月をかけた大工事の末に出来たのが「信玄堤」と言われる堤防である。
この堤防は信玄の時代から明治時代まで、実に350年間も使われ、その間の洪水を見事に食い止めたという。

また、地域の湧き水の領有権をめぐって3つの村で「水争い」が起きた際、震源は湧き水の中に三角形の柱を置き、三方向に流水を分岐させ、この争いを調停したという伝説がある。
その湧き水は現在も、八ヶ岳南麓高原湧水群の1つ、「三分一湧水」として、清涼な水を出し続けており、ペットボトルを片手に訪れる観光客も多い。

そして何より、「信玄の秘湯」はあまりにも有名である。
川中島の戦いで、上杉謙信から受けた刃傷を癒すために入った下部温泉をはじめ、山梨県下には「隠し湯」が点在している。
いずれも火傷や外傷の治りを早めるという鉱泉である。
信玄は、水を治め、水を味方につけながら戦国の世を生き抜いた武将だったのである

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